「甘い生活」について


テレビドラマ、宣伝、広告、選挙公約、社会には甘い言葉があふれている。

それらの甘い言葉が本当に現実になるとどうなってしまうのか。

「サザエさんが突然マスオ氏にフェラチオしはじめるような衝撃の描写を『朝日新聞』の朝刊に掲載したときにはじめてその作品が『物品』というものだと確認される」と寺山修司は言った。つまり「物品」において性の営みというのはタブーなのである。彼独特の言い回しだとは思うが、世に溢れる「愛」は絶対的な正義であることを言いたかったのだろう。 この映画の中で、マイホームパパの男が二人の子供を殺しピストル自殺する場面がある。男は一切浮気をせず家庭を大切にし続けていた。女たちの誰もが羨むようなこの理想ともいうべき男の内側では何が起こっていたのだろうか。 男は生前こう洩らしていた「すべてが皮相的で、すべてのことが組織化されており、すべてのことがきまりきっている今の生活ほど惨めなものはない。なぜなら、それらを私は信じていないからだ。それらはみなうわべだけのものにすぎず『真実』を隠してしまっている。」 人間は唯一服を着る動物である。いつの時代も人々はこぞって見栄えのよい服を仕立てるが、そこには常に女たちが喜ぶ甘い言葉が織り込まれているのかもしれない。だが、人が表皮を繕わなければならない理由は、別のところにあるだろう。

この「甘い生活」という作品は当時ポルノ扱いされ、スペインでは公序良俗に反するということで公開禁止になったという。 社会に浸透したイデオロギーと対峙するのはいつの時代も困難を伴うことは、踏み絵を実施した徳川幕府、地動説を唱え裁判にかけられたガリレオ・ガリレイなど史実の例をみるまでもないだろう。 この映画を作る過程においても、イデオロギーを監視するものたちの目をかいくぐるためにギリギリの線での描写に留めていたことは想像に難くない。そこで手法をあやまると狂人扱いされてしまうことを監督のフェリーニはよく分かっていたのだと思う。 世に「愛」が溢れるようになってから人々は「物品」に縛られ続けてきたのではないだろうか。「物品」を量産し続ける為に、人々は鳥かごの中に組み込まれた。そうして盲目的に量を求めざるを得なくなり、その質は排除されていく。 そのように人々が踊らさせる場面がこの映画にはいくつも出て来る。 聖職者の服を着せられたグラマーな女 人気女優に群がるカメラマンたち インチキ奇跡に熱狂する人々…… この映画はおよそ60年前に作られたものだが、その状況は現代もさして変わらない。 教会で愛を主張する結婚式、都合の良いとこを切り取ったニュース番組、自分が誰かも分からないアイドルたち、ある意図を持って作り上げられたものの内側に人々は埋没させられる。 そうして増え続けるDV、性犯罪、離婚訴訟、出生率の低下…… この映画の冒頭に、キリスト像をヘリコプターから吊るしひけらかすシーンが挿入されたのも虚飾の本質に焦点が当てられているからに違いない。 イデオロギーに人々を閉じ込めさせるものが商品性だとしたら、芸術性とは人々をイデオロギーから乳離れさせるものでなければならないと思う。 歪められてしまった現実、深く無意識下に追いやられたもの、それを意識の上に浮かび上がらせること、真実を翻訳することが芸術の役割だろう。痛みの伴うことをじんわり浸透させる麻酔のように。 ジャーナリストが切り取る表皮からその裏側の現実を映し出すフェリーニの構成力には感嘆させられる。ただ、映画という手法もそれと同じくフィルムという表皮でしか語ることができない。大切なことは我々がそこから何かを感じ、そして自分の足で立ち上がっていくことだと思う。 そうでなければ、少女の声も聴こえぬ腑抜けた男たちがさらに量産されてしまう、この映画のラストシーンのように。その少女は言った「人生を変えてみたら」と。 「甘い生活」フェデリコ・フェリーニ

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