作品と自己弁明


 「歴史は思い出すものである」と小林秀雄は言った。

 書物も作品も本来は「他者」、つまり自分の外にあるものである。ところが、昨今のたいていの人たちは「自分だけ」の中に閉塞してしまっている。

 「他者」を<物品>として捉えた時は容易に近づくことができるが、それが<生身の他者>となると拒絶反応を引き起こす。<生身の他者>はあなたと同じように、臭いがあり、血があり、醜悪さを内在している。ところが、そういうものを除菌しなければ現代の人には届かない。

 教育の場などにおいても「知る」ということに重点がおかれる。例えば、英語教育が良い例だろう。日本人はこぞって英語の勉強をするが、ここまで英語を話せない民族も珍しい。それは、英語話者に対する当事者意識が欠落しているからではないか。自分の話す日本語に自信をもてず、身近な人とさえコミュニケーションをとれない者が、さらに遠い他者である英語話者などとはとうてい心を通わすことはできない。

 作品を発表する場においても、同様の傾向が見られる。

本来作品とは他者とのコミュニケーション手段であるべきだが、そのベクトルが「他者」に向かうのではなく、「自分だけ」に向かってしまう。「自分だけ」にこびりついた作品は、飛んで行くことができない。

 それが利益を得るための商的行為ならまだしも、自己弁明のための手段となってしまっていることが多い。その背景には、「自分をもつこと」が暗黙のうちにタブーとされる日本の風潮にあるのではないか。古来より忠誠心が尊ばれてきた日本社会では、自分に対して誠実であることに引け目を感じてしまうDNAが脈々と受け継がれているように思う。そうした中で「自立」を重んじる西洋的自我が入ってきた途端に、みな宙ぶらりんとなってしまった。

 巷でカマッテちゃんの学芸会のようなものがはびこるのも、自分がアーティストなり俳優なりの「着ぐるみを着る」ことが唯一の救いとなっているからではないか。

彼らは自己弁明に追われ続け、作品は市場価値を付加しなければ広がってはいかない。ゆえに、すぐ化けの皮が剥がれ廃れていく。そうして、自分だけのための作品となり、他者とのコミュニケーションは断絶され、「みんなと一緒」に見えない糸に絡まったまま虚飾の世界に埋没していく。自己満足と引き換えに作品は生命を失うばかりでなく、他者との溝を深めるばかりである。

 無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうる。ー寺山修司

 お客様化された人々とのコミュニケーションはますます困難になりつつあるが、呪縛の糸をほぐしていくことが作家の役割であると信じる。

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